「百人斬り」訴訟の意義は不変

会長 阿羅健一

百人斬り競争とは
野田少尉(左)と向井少尉(右)

 昭和十二年夏、支那事変がおこりました。日本軍は北京や天津をつぎつぎ攻略していき、八月には じまった海での戦いも、十一月には日本軍の追撃戦となりました。そして、十二月一日、首都南京の攻略が決定され十三日、南京が陥落しました。
 国内は戦勝に沸き、それに呼応するかのように、十一月末から十二月にかけ、毎日新聞にふたりの将校の華々しい記事が載りました。
 記事とは、どちらが早く中国兵百人を斬るか競争が行われているというものでした。向井敏明少尉と野田毅少尉のふたりが、毎日十数人の中国兵を斬りながら南京に向かっているというのです。
 そのころの新聞には、このような創作記事がよくみられました。ヨタ記事だと批判されもしましたが、戦争のさなか、戦意昂揚の記事だとして、深く受け止められることもなく、若いふたりの将校の名は有名になりました。


敗戦、ふたりの将校は銃殺刑に
戦友の小笠原芳正氏に託された野田少佐の遺書

 ふたりの将校が国内で有名になったころ、中国ではこの記事が殺人競争と歪曲され、南京虐殺のひとつとして、宣伝されていました。
 ふたりの将校のみならず、日本のだれもが、殺人競争に作りかえられていることは知りませんでした。
 戦争はつづき、向井敏明少尉は歩兵砲の指揮官として戦いつづけました。野田毅少尉も、飛行機の操縦桿を握り、ビルマの南機関に所属し、と戦いつづけました。
 昭和二十年になり日本は負けました。南京での戦いは遠い八年も前のことになっていました。
 敗戦から二年、突然、ふたりの将校は殺人競争の容疑で南京に連れていかれました。まったく思いもかけぬことでしたが、百人斬り競争はつくり話ですから、説明すれば簡単に理解してもらえると考えていました。
 しかし南京の軍事法廷では、南京虐殺が問われ、昭和二十三年一月二十九日、二人は銃殺刑に処せられてしまいます。
 遺族たちにとっては、あきらめきれません。運命を悔やむしかありませんでした。

『中国の旅』が伝えた百人斬り競争

 それから二十数年経過した昭和四十六年、朝日新聞の本多勝一記者が「中国の旅」という連載のなかで百人斬り競争を取り上げました。
 そこに書かれたものは、毎日新聞が報じたものとも、南京の軍事法廷のものとも違っていました。
 ふたりは上官の命令で殺人ゲームを行い、百人斬り競争を三度も繰り返した、と書いてあるのです。
 その記述に対して、ただちに作家の鈴木明が疑問の声をあげました。そして鈴木明は、ルポルタージュという手法により、百人斬り競争がまったくの虚構であることを明らかにした上、毎日新聞の創作記事がもとにふたりは裁判にかけられ、毎日新聞の記者が創作を認めなかったため、ふたりは死刑になったと明かにしました。
 それらをまとめた『「南京大虐殺」のまぼろし』は大宅ノンフィクション賞をもらうとともに、ベストセラーとなりました。
 百人斬りが架空であることは、そのころの代表的な評論家や作家だけでなく、小田実など左翼文化人も認めることとなりました。

虐殺記念館に展示されるふたりの将校

 鈴木明に対して本多勝一は反論できませんでしたが、連載が終わると本多は『中国の旅』を単行本として上梓しました。『中国の旅』には日本人の考えつかないような残虐行為が記述されていたため注目され、多くの人に読まれました。
 まったく反論できなかった本多勝一ですが、といって百人斬り競争を書いたことが間違いだったと撤回したわけでなく、そのことには一切ふれず、しばらくすると、百人斬り競争を捕虜のすえもの斬りだと言い出してしまいます。
 本多勝一が素直に謝れば、すべてが解決したのですが、逆に居直ったのです。
 『中国の旅』はそのまま刊行されたため、何年かすると、百人斬り競争を事実と勘違いする人もあらわれ、小学校の試験にだされたり、昭和六十年に建てられた南京の虐殺記念館では、ふたりの将校の写真が等身大に拡大され、もっとも目を引く展示物とされるようになりました。

遺族を悲しみに

向井千恵子さん

 このようなことは遺族を悲しませました。
 ふたりの将校は南京の雨花台で処刑されたのですが、向井少尉の遺児である向井千恵子さんは、何度も南京に行って父の霊をなぐさめていました。南京虐殺の展示会は日本各地で開かれ、ふたりの将校の写真が展示されていたので、野田少尉の妹の野田マサさんはそれらに抗議したこともありましたが、受け入れられることはありませんでした。
 次の世代になれば、百人斬り競争の真実を知る人もなくなり、百人斬り競争が歴史事実として残るおそれが強くなりました。それを心配したふたりは、自分たちが生きている間になんとしても正したいと考えるようになりました。
 そんなとき、向井千恵子さんが稲田朋美弁護士と会いました。弁護士生活を十数年送ってきた稲田弁護士は、そのときから相談相手となり、訴訟という方法で正しく知らせることができるのではないかとアドバイスしました。
 これがきっかけで平成十五年四月二十八日、野田毅少尉の妹野田マサさんと、向井敏明少尉の娘エミコ・クーパーさん、向井千恵子さんの三人が本多勝一たちを訴えることにしました。
 『中国の旅』を書いた本多勝一、それを単行本として発行する朝日新聞、百人斬りの創作記事を掲載した毎日新聞、捕虜のすえもの斬りを書いた『南京大虐殺否定論13のウソ』を出版した柏書房。
 これら四者により、ふたりの将校とその遺族の名誉は毀損され、遺族のプライバシーと故人に対する敬愛追慕の情が侵害されたと訴えました。
 高池勝彦弁護士らが加わり、十一名の弁護団が結成されました。

東京地裁への訴え

 百人斬り競争が虚構であることは三十年も前に決着しているので、まず、そのときの論争の経緯を証拠として提出することにしましたが、遺族は、それよりも遺書が重要だと考えました。
 銃殺刑をまえにして、ふたりの将校は遺書を書きました。それら遺書は、同じように拘留されていた同胞によって日本に持ち帰られ、半世紀もの間、遺族によって保存されてきました。
 遺書は、創作記事を書いた毎日新聞の記者を恨むこともなく、銃殺刑の判決をくだした南京軍事法廷を非難することもなく、百人斬り報道は記者との雑談のなかから出た冗談話で、それが記事になったことすら当時は知らなかった、と淡々と書き記しています。
 死をまえに飾ることはなにもありません。この遺書を読んでもらうことが一番だと弁護団も考えました。

「日華親善の捨石」となる決意を述べた向井少佐の遺書

向井少尉遺書(抜粋)
「我は天地天命に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等への罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男児として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八洲に帰ります。わが死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸いです。中国の奮闘を祈る。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、死して護国の鬼となります」

野田少尉遺書(抜粋)
「俘虜、非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断りいたします。死を賜りましたことについては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
今後は我々を最後として我々の生命を以て、残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願いいたします。宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨み晴らさんが為、一方的裁判をしたりなされない様祈願いたします。我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒、我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願いたします。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳」

佐藤振壽カメラマンの証言

 百人斬り競争が虚構だと誰もが認めたにもかかわらず、訂正することも、謝ることもしない者が相手です。遺書や論争記録のほかに、さらに証拠をつきつけなければなりません。
 百人斬り競争の報道には五人がかかわっていました。ふたりの将校のほか、記事を書いたふたりの記者と、ふたりの将校を撮ったカメラマンです。このうちカメラマンの佐藤振壽さんが健在でした。
そして、佐藤カメラマンは九十一歳という高齢でしたが、当時のことをよく覚えていました。
 佐藤カメラマンに当時のことを話してもらうことも大切だと考えた遺族は、佐藤カメラマンの証人申請をして認められました。
 平成十六年七月十二日、証言台にたった佐藤カメラマンは、南京に向かう途中で百人斬り競争の話を聞いたときのことを、「百パーセント信じることはできません」「あたかもチャンバラごっこみた
いに、目の前の兵隊を、一人斬った、二人斬ったと、そういうような戦争の形は私は見てませんから信用できません」と話しました。
 当事者の見聞ほど重要なものがないのは言うまでもありません。

本多を証人申請

 さらに遺族たちは、本多勝一の証人申請もしました。
 本多勝一は『中国の旅』で中国人の言うままを書いたと語っていますが、そのような一方的な記述は記者として許されるものなのか、あるいは、百人斬り競争を捕虜のすえもの斬りに変えたのはなぜなのか、それらを問いただし、百人斬りが虚構であることを改めて指摘しようとしました。
 ところが本多勝一は証人尋問を拒否しました。
 訴えが不当だというのなら、証人台に立って、いかに『中国の旅』に書いたことが正しいか、いかに百人斬り競争が事実かということを証言すればよいのです。
 それにもかかわらず本多勝一は拒否しました。
 拒否したことは、『中国の旅』の記述も、捕虜のすえもの斬り記述も、反対尋問で崩壊することを恐れたからでしょう。
 さらに驚いたことは、本多が拒否しただけでなく、法廷が本多勝一の証人を認めなかったことです。
 すでに、この段階で判決は出ていたといえるでしょう。
 このほかにも、遺族は証人申請をしました。
 野田少尉は、毎日新聞の報道で有名になったため、故郷に帰ったとき、出身の学校で講演を頼まれています。その講演を聞いたひとりが、野田少尉は中国兵の捕虜を斬ったと話したと記述していました。そのため遺族たちは、当時を知る人を探して野田少尉の講演内容を確かめますと、そのような話を聞いた人はおりません。遺族たちは、そのような人の証人申請もしました。
 しかし、法廷はそのような証人も認めませんでした。

地裁判決下る

 平成十七年八月二十三日、東京地裁で判決が下りました。
 判決は、毎日新聞の報道を「虚構であることが明らかになったとまで認めることはできない」とし、本多勝一の『中国の旅』などの記述についても「一見して明白に虚構であるとまでは認めるに足りない」と判定しました。
 遺族の訴えをみとめなかったのです。
 訴訟の経緯から、このような判決が予想できなかったわけではありませんでしたが、恐れは現実となりました。
 野田マサさん、エミコ・クーパーさん、向井千恵子さんら遺族の落胆は見ていることができません。
 弁護団長の高池勝彦弁護士、主任弁護士の稲田朋美弁護士、そのほかの弁護士も気落ちを隠せません。
 この日傍聴に集まった支援者は百人を超えていました。判決言い渡しの後に行われた集会では、判決に対する驚きとくやしさの声が次々とあがりました。
裁判官は、遺書のなかに真実を見つけることができなかったのでしょうか。三十年前に決着のついた論争の経緯を理解できないのでしょうか。本多勝一が証人尋問を拒否している事実をどうとらえているのでしょうか。
 だれもが納得できませんでした。

高裁における審議

 二月二十二日、控訴審が開かれました。
 開廷一時間前から支援者は集まり、傍聴を締め切るころ、その数は六十名を超えました。東京高裁でこそ、という気持ちがあったからでしょう。
 その数日前、遺族たちの提出した準備書面の一部は認められない、と高裁から高池弁護団長に連絡がきました。
 このようなことは控訴審で往々にあり、その場合、地裁の判決がそのまま踏襲されてしまいます。
そのため、遺族と弁護団が集まり、意見陳述を認めるよう、それとともに本多勝一の証人尋問を求めるよう、改めて要請することにしました。
それに対して裁判所からは、補充弁論を五分以内で認める、という返事があっただけでした。
 このようなことから、厳しい控訴審が予想され、法廷は開廷まえから緊張感がみなぎりました。
 予定通り午後二時に開廷しました。開廷まもなく、主任の稲田朋美弁護士が補充弁論のため立ち上がり、裁判所の認めなかった準備書面を読みあげました。その内容は、マスメディアが報道の名前のもとに国民の人権を踏みにじった地裁の判決を指摘するものです。
東京地裁の判決を読むなら、改めて熟慮してほしい点であり、このような主張すら法廷は聞こうとしないのかというのがこの時の傍聴者の気持ちでした。
 本多勝一側から格別の発言はなく、二時二十五分ころ、協議と称して裁判官は退廷しました。五分ほどして裁判官は戻ってきましたが、発した言葉は、これで口頭弁論は終結にします、というものでした。高裁では分かってもらおうと意気込んでいたところ、一回だけの口頭弁論で終わりだというのです。
 ただちに高池勝彦弁護団長が裁判官忌避の申し立てをしましたが、終結後の忌避です、と一言、裁判官たちは退廷してしまいました。
 傍聴者は唖然とするだけでした。

不当判決に遺族から悲憤の声

 
野田マサさん(中央)

 一週間後の三月一日、申し立てた裁判官忌避は却下になったとの知らせがあり、つづいて三月十二日、判決期日は五月二十四日(水)に決まったとの知らせがありました。
このように、控訴審は一回だけの口頭弁論で終わり、五月二十四日午後一時十分から控訴審の判決を迎えることになりました。
 五月二十四日、東京高等裁判所(石川善則裁判長)にて控訴審判決の言い渡しがあり、遺族の訴えは棄却されました。第一審判決とほとんど変わらない、原告側の訴えを無視した不当判決です。
 また平成18年12月22日付けで、最高裁から高池弁護士宛に書状がとどき、最高裁への上告は棄却されました。

今後の活動方針
 一、現在展開している「中国南京大虐殺記念館の向井・野田両少尉の写真撤去に関する請願」の署名活動は継続すること。
一、衆議院議員の平沼赳夫先生を会長とする国会議員連盟の旗揚げは、平沼先生の体調回復を待って行なうこと。
一、訴状、書証、判決などを取りまとめて、資料集を刊行すること。